「杉原潤一を偲ぶ会」について
  (元事務局員孤独死事件)

 07年6月19日(火)、杉原潤一さん(40歳)が、豊島民商から「退職」を強要され納得させられた後、わずか4か月後に死後3週間経った状態の遺体で発見されました。
 杉原さんは、豊島民商の事務局員として6年間在職しましたが、07年2月に退職したことになっていました。
 豊島民商の菅原悦子事務局長が杉原さん宅(アパート)を訪れた際に、倒れていた杉原さんを発見したので、救急車を呼び、救急隊員が入室したところ、すでに死亡していたため、目白警察が検死を行い、死亡後すでに3週間程度が経過しており、自殺・他殺ともに可能性がないと判断したとのことです。

  


 杉原潤一さんを偲ぶ会へのお誘い


偲ぶ会」の発起人の人たちが、「偲ぶ会へのお誘い」を杉原さんが生前お世話になった人や、杉原さんの友人に送ったところ、豊島民商の指導部は、運動ニュースや文書を会員に送って、「民商は関係ありません」と念を押し、電話で不参加を呼びかけることまでしました。
また日本共産党も、共産党の区議会議員全員に「偲ぶ会」への参加を呼びかけたのに、区議会議員は誰も「偲ぶ会」に参加してくれなかったばかりでなく、弔文すら寄せてくれませんでした。
6年間民商で働き、共産党の後援会活動を一生懸命やっていた杉原さんに対して、共産党のやったことはあまりにも冷酷な仕打ちだと思います。
 このような冷酷な日本共産党が弱者救済を叫んでも宣伝の為のパフォーマンスとしか思えません。

 なお「杉原潤一さんを偲ぶ会」は、用意した席がほぼ満席になった後、発起人代表の挨拶で始まり、遺族代表のていねいなお礼の言葉でおわり、後日、発起人代表が杉原さんの追悼の文集を参加者に送って成功裏に終了いたしました。

杉原潤一さんの「孤独死」について考える上で3つの問題があります。
 
 1つは、杉原さんが「うつ病」のために事務局員の仕事を行えない深刻な病状にあったことです。この「うつ病」を悪化させた重要なきっかけとなったのが、「ひまわり道場」問題をめぐる、豊島民商の{調査委員会}で,杉原さんが書記の仕事を強いられたことがあります。
 本来、公平・中立な立場で、事実の調査・検証が行われるべき調査委員会では、批判された一連の事実の隠蔽と批判した相談員・会員の排除が行われただけで、解決に逆行する事態になりました。
 こうした複雑な事態の元で、杉原さんは調査委員会の書記という仕事を押し付けられ、精神を消耗させられていったのです。
 
 2つ目は、07年2月とされる杉原さんの退職が適切・妥当なものであったかどうかです。
 話によると、杉原さん、おじさんのNさん、菅原悦子事務局長が話し合い、退職が決まったとのことです。

 しかし、このとき杉原さんは「何で自分がやめないといけないのか」と強い抵抗の意志を示したとの事です。
 「うつ病」の杉原さんを本人の意に反して、むりやり退職を「納得」させたのではないでしょうか
 そしてこの「退職」の4ヵ月後に杉原さんは遺体で発見されたのです。
 無理やり退職させた挙句、生活保護などの手続きの援助もしなかったために、「うつ病」の彼は引きこもりになり、ほとんど外出もしないまま衰弱して、死に至ったものと推察されます。
 
 3つ目は、豊島民商の執行部の中枢は「孤独死」と言う彼の死の真相を知りながら隠蔽しようとしていることです。
 たとえば杉原さんの死については、運動ニュースで、「理事会に報告し了承されましたと」書いただけで遺体発見の状況などはいっさい報告されていません。
 また遺体が発見される2日前に開かれた「第60回総会」における菅原事務局長の報告でも、杉原さんの退職についての説明はありませんでした、また「運動ニュース687号」では、死因を病死と報告をしています。
 
 死因について、検視した目白警察署は「遺体の損傷が激しく死因を特定する事が出来ないため死因不明」としています、死因を病死と発表した豊島民商は杉原君が放置しておけば死ぬ可能性のある疾病を患っていた事を知っていた事になります、そして知っていたにも拘らず放置していた事を示しています。

 あまりの冷酷さにあきれ返るばかりです。 ≪冷酷さで豊島民商の右に出る企業は無い≫

労働基準法19条(解雇の制限)違反疑惑、労災隠し疑惑


労基法19条違反容疑のある
豊島民商事務所
私たちは杉原君のうつ病は「業務上の疾病」だと思っています。豊島民商の指導部がそうでないと言うならば、事務局長の菅原悦子と、会長の長谷川清はそのことを立証すべきです。
 共産党員が専横的に支配している豊島民商でこのような問題が起きているのに、問題を起こした党員達の味方をしている日本共産党は「労働問題」を語る資格は無いと言えます。


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